32歳になる人の日記

株。駐在員苦労話。外資企業への転職、ままならない子供時代の思い出

有名になることの対価

うんこちゃんの炎上を見ていると悲しい気持ちになるのと同時に、「こういうことってよくあるな」と思う。

例えばアニメ・漫画などのサブカルチャーもそうだ。

世間一般では背丈の短い、幼い女の子が、性的な描写で登場するのはすこし奇妙で問題なのだが、アニメ文化はそれを「かわいい」ともてはやし、ジャンルのひとつとしての存在を許している。

これはアニメ文化が愛好家によってのみはぐくまれ、愛好家に対してのみ開かれた文化であったからで、愛好家は愛好しているからその描写を見たところで特に何とも思わない。

しかしながら2010年ごろから一般にアニメが広まってきて、国として「Cool Japan」などと輸出産業に使用しようとすると風向きが変わってきた。

覚えている人も多いと思うが、フェミニストルッキズム反対の立場をとる人々からの批判が生まれるようになった。

 

これは今日も終わることのない長い長い闘争であるが、

一部の愛好家の趣味を反映したアニメの女の子の一般からすると異常な描写を規制するか、それとも表現の自由のために戦い放置するかーという闘争が始まった。

私はどちらが優位であるかなどとは思わないが、現象としてこれを眺めている。

この現象の原因は、アニメや漫画などの一部のコアな愛好家により始まった文化が一般に広がったから、だ。

一般というのは非常に非常に非常に、多様な人がいる。

様々なことで気分を害したり、様々なことで全く気分を害さない人もいる。

受け取り方も千差万別で、その受け取り方を批判しあうことは不毛だ。

重要なことは、その中のどの層をカバーし、どの層をカバーせず、気にしないかという製作者側の意思や業界団体の意思を反映したルールである。

有名になる前は、こういったことは気にしなくてもよかった。

一部の愛好家のみで楽しく和気あいあいと、時に「それは解釈違いだ」などとののしりを入れながら、しかしそれでも楽しみながら文化をはぐくんでいた。

しかし一般の目に触れられるようになってからはどうだろうか。一部の愛好家は落胆しただろう。なぜなら、一部の愛好家がこだわりぬいてつけた制服のしわや、ほほの紅潮が、一般化してしまうとなくなってしまったからだ。

その結果そのイラストは取るに足らないただの絵であり、一部の愛好家も、フェミニストにさえ!!見向きもされなくなった絵となり、時の流れで忘れ去られてしまうのだ。なんていうか、この流れはもう1万回も見たし、これから1万回以上見るのだろう。

 

一般の目に触れるというのは、有名になるということは対価が発生する。

それはコンテンツの一般化である。コンテンツが強みとしていた部分が一般化によりなくなってしまうのである。

それは一般受けする強みであったなら運がよかった。でも一部の愛好家は「一部の愛好家」であるからこそ、一般には存在しない何かを求めていたのではないだろうか。

一般化したものが好きなのであれば、最初から一般的な何かにうつつを抜かせばいいのだ。

 

うんこちゃんがどうしていきたいか、一般化した中でも強みがあるのか、これからも期待したいと思う。